白山信仰の拠点として栄えた苔むすパワースポット・平泉寺白山神社

平泉寺白山神社

福井県勝山市の平泉寺白山神社は、霊峰として崇められてきた白山への登拝口にあたり、養老元年(717)に僧泰澄が開いたというこの地方でも屈指の古社です。最盛期には8千人の僧兵がいたといい、源平合戦や南北朝の動乱でも重要な役割を果たし、山麓に一大宗教都市を形成していましたが、天正2年(1574)に一向一揆勢に攻められて全山焼亡しています。現在は「白山平泉寺旧境内」の名前で国史跡に指定され、一面に苔むす境内には神秘的な雰囲気が漂っています。

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平泉寺白山神社のアクセス方法と駐車場

平泉寺白山神社に公共交通機関でアクセスする方法ですが、まずはJR福井駅からえちぜん鉄道に乗り換え、およそ50分ほどで勝山駅に到着します。ここから勝山市コミュニティバスのダイナゴン(平泉寺方面)に乗り、10分少々で平泉寺白山神社前バス停で下車します。ダイナゴンは休日限定で、雪の深い12月から3月中旬までは運休です。

マイカーでアクセスする場合、北陸自動車道の福井北ジャンクションから中部縦貫自動車道に分岐し、15分ほど走って勝山インターチェンジで降ります。ここから勝山の市街地方面に向かい、道路標識にそって進めば15分ほどで到着できます。

平泉寺白山神社の境内手前には、近いほうから順に勝山市営まほろば駐車場、第1駐車場、第2駐車場があり、普通車はいずれも無料で駐車可能です。駐車場の周囲には白山平泉寺歴史探遊館まほろば、平泉寺のソフトクリーム屋さんなど、一息つける場所があります。

境内は入口から石段になっているので車では進入できず、長い参道を徒歩で向かうことになります。

平泉寺白山神社の御朱印をいただく方法

平泉寺白山神社は本殿に伊奘冊尊、右手の別山社に天忍穂耳尊、左手の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊を祀っています。この本殿まで向かう手前、境内入口の精進坂とよばれる石段を越えて少し歩いた左手に社務所があります。この社務所で申し出れば、初穂料200円で御朱印をいただくことができます。平泉寺白山神社のオリジナル御朱印帳もあり、表紙にかつての平泉寺白山神社の絵図をデザインしたものです。

平泉寺白山神社の見どころ

平泉寺白山神社の見どころはいくつもありますが、最初に目にするのは境内一面にひろがる苔の美しさといえます。石畳の参道も「日本の道100選」に選ばれた名風景です。社殿に向かう途中には、泰澄が見出したといわれる御手洗池、白山三社をかたどったという三叉杉があり、本社と両脇のあわせて3つの社殿も見どころといえます。

平泉寺白山神社の歴史

平泉寺白山神社の歴史について、社頭の案内板に次の通り書かれています。

白山神社 福井県勝山市平泉寺町鎮座
御祭神 本社 伊弉冊尊 別山社 天忍穂耳尊 越南知社 大己貴命(大国主命)
創建 養老元年(七一七)
由緒
当社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。師は白山登拝の途中林泉(今の御手洗池) を発見され、そこで白山の神の託宣をうけられ、当地が神明遊止の聖地なのを知り、社を建てて白山の神を奉斎されたのに始まる。自山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれ、後世一般に平泉寺の名で知られたため寺院であるかのように思われてきたが本来神社である。平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。鎌倉時代の初め、兄頼朝に追われた源義経が奥州平泉に落ちのびる途中当社に詣でたことが『義経記』に見え、 鎌倉末の後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して当社の僧兵が大野郡牛ケ原の地頭を攻め滅ぼしたことも『太平記』に見え著名なことである。中世の最盛期には社領九万石、四十八社・ 三十六堂・六千坊とうたわれ、戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力で あった。平泉寺出身の三光坊は能面師の祖と仰がれている。このような当社であったが、惜しくも天正二年(一五七四)折から係争中の一向一揆のため放火せられ全山一時に灰燼に帰した。その後約十年にして再興せられ、豊臣秀吉をは じめ江戸時代に入ると越前藩主松平家の篤い崇敬をうけ、やがて明治維新に際し政府の神佛分離令により長年の神佛習合の姿を成し、本来の白山社に復し今日に至っている。

御本社 寛政七年(一七九五)の造営
御祭神 伊弉冊尊。現社殿は越前藩主松平重盛公による再建で総欅の入母屋造槫葺。昇り竜・降り竜の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金剱社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。