織田信長が創建し安土宗論で知られる西光寺

西光寺は滋賀県近江八幡市にある浄土宗の寺で、山号は竜亀山といい、本尊は阿弥陀如来です。
天正7年(1579年)、日蓮宗と浄土宗の間で宗門争いが発生し、織田信長が双方の僧侶を召し出して対決させた、いわゆる「安土宗論」の浄土宗側の参加者にあたる貞安が、織田信長から恩賞として安土城下に寺地を賜ったのがはじまりといわれます。
後に豊臣秀次が八幡山城の城下町を整備した際に、安土城下から現在地に移転しました。
寺内には円山応挙の筆という衝立「芦鯉の図」などの国・市指定の文化財も多く、また境内の一角には織田信長の供養塔も建てられています。

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西光寺のアクセス

西光寺は、滋賀県近江八幡市中村町726にあります。
公共交通機関の場合、JR琵琶湖線 「近江八幡駅」で下車してバスに乗り6分程度、「近江バス八商前」バス停で下車して徒歩3分です。
マイカーまたはレンタカーの場合は、名神高速道路「竜王インターチェンジ」から国道477号を経由して20分です。

顎の骨を納めたという織田信長供養塔

西光寺境内の墓地の入り口付近には、織田信長の供養塔があります。
この供養塔について、現地の案内板は次のように伝えています。

織田信長公供養塔
天正十年(1582年)六月二日、本能寺で没した信長公の遺骸を収めたのは、京都にある阿弥陀寺の、清玉上人で、同寺に立派な供養が営まれています。天正十三年九月十三日に八十歳で亡くなった上人の後を襲った第二代貞安によって分骨されたと伝えられる。
骨を納めた信長公供養塔(石造大五輪)は、昭和六年、公の三百遠忌に際して先住により墓地域より現在地に移されました。
代々語りつがれた話。
信楽焼の(うずくまる壺)に納められたアゴの骨との事。

織田信長の安土宗論とは

現在の滋賀県近江八幡市には、織田信長が築いた安土城がありましたが、織田信長の事績を綴った太田牛一の『信長公記』には、次のようにかかれています。
天正7年(1579)、浄土宗の霊誉玉念が安土城の城下町で説法をしていたところ、日蓮宗の信徒から問答をけしかけられたため、玉念はその場では論争に応じず、宗門の僧侶を出すようにと諭しました。
このことが織田信長の耳にも達し、城下の浄厳院の仏殿に日蓮宗・浄土宗それぞれの僧侶が集められて宗論対決が行われました。
この結果、日蓮宗側が破れて妙国寺普伝と大脇伝介の2人が処刑され、他の者は今後他宗とは一切法論をしないとする起請文を出すことになりました。
逆に法論に勝った浄土宗の聖誉貞安らは織田信長から褒美を賜ったということです。

栗原百助の切腹石

江戸時代、今の京都府京丹後市の一帯を治めていた宮津藩では、圧政の末に大規模な「文政一揆」が勃発しました。
この一揆では農民側に処罰者が出たのはもちろんですが、宮津藩士・栗原百助が入牢となるなど、武士の側にも責任を問われて処罰された者が少なからずありました。
栗原百助は無実を訴えようとして脱獄し、近江八幡の西光寺まで逃れましたが、追手に囲まれてもはや逃れられないとみるや、住職に遺書を託して境内で切腹して果てたといいます。
栗原百助が切腹した場所は「栗原百助切腹石」として、現在も境内の一角にあります。