大塩平八郎の乱に続き幕府を震撼させた生田萬の墓

生田萬の墓

新潟県柏崎市にある「生田万の墓」は、江戸時代の天保年間に「生田万の乱」を起こして柏崎陣屋を襲撃し、志半ばで自刃した国学者生田万を葬った場所です。天保の飢饉のさなかにあって、鎮圧されたとはいえこの企ての翌日には高騰していた米価も下がり、庶民は安堵したといわれています。墓は現在の柏崎小学校の脇にあります。

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生田万の墓のアクセス方法と駐車場

「生田万の墓」は、柏崎小学校にフェンスに隣接した一角にあり、国道352号沿いでもありますので、近くを通ればすぐにわかるでしょう。JR信越本線「柏崎駅」からは徒歩で15分、北陸自動車道「柏崎インターチェンジ」から車で15分ほどの場所です。
この場所そのものに駐車場はありませんが、100メートルほど先に柏崎市アクアパークや柏崎陸上競技場の駐車場があります。

生田萬の墓の由来

生田萬の墓の由来について、現地の案内板に次のようにあります。

市指定文化財
記念物・史跡  生田萬の墓碑及び供養碑6基
(昭和48年8月1日指定)

天保8年(1837)6月1日、生田萬は、折からの天保飢饉による窮身の救済を求めて、柏崎陣屋に討ち入り、破れて自刃した。彼の墓は、世間をはばかって永い間建てられず、明治32年戊辰招魂所の片隅に建立された。他にも、生田萬埋骨塔や天保4年(1833)の飢饉による餓死者の供養塔などがあるが、これらの石碑は、江戸時代の火葬場にあったものを、大正時代に生田遺跡保存会が移転・整備したものである。