国文学や民俗学に大きく貢献した偉人・折口博士父子の墓

「折口博士父子の墓」は、折口信夫とその養子である春洋の墓です。
折口信夫(おりくちしのぶ)は「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」の歌で知られる歌人の「釋迢空」その人であるほか、『春来る鬼』などを著した民俗学者でもあります。
折口信夫自身は大阪出身ですが、その弟子で養子となった春洋は石川県羽咋市の出身で、第二次世界大戦の激戦地・硫黄島で戦死してしまったため、折口信夫がこれを悼みみずから父子の墓を建立したものです。

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折口博士父子の墓のアクセス

折口博士父子の墓は、石川県羽咋市寺家町、国道249号から西に入った共同墓地にあります。
公共交通機関を使う場合、JR金沢駅より北鉄バスの富来急行線に乗り70分、「一ノ宮」バス停で下車して徒歩5分です。
マイカーでアクセスする場合、のと里山海道の柳田インターチェンジで降りて国道を北に向かい3分ほどです。
現地には無料駐車場もあります。

折口博士父子の墓の由来、折口信夫・春洋父子の履歴

折口博士父子の墓の由来や、折口信夫・春洋(養子)父子の履歴については、現地の案内板に次のとおり書かれています。

折口信夫博士父子の墓

もっとも苦しき
たたかひに
最くるしみ
死にたる
むかしの陸軍中尉
折口春洋
ならびにその
父 信夫
の墓

折口信夫博士 筆名 釋迢空
(1887~1953)
明治二十年二月十一日大阪府に生まれる。
明治四十三年國學院大學を卒業、大阪で中学校教師をしたのち、國學院大學に勤め、国文学、民俗学、芸能学、 言語学と研究分野を広げ、大正十年教授就任。昭和三年慶応大学教授を兼任、昭和七年文学博士となる。
一方で詩歌の才能に優れ、独自の歌風を確立する。
生涯独身であったが、門弟の鈴木金太郎、藤井春洋等と同居。春洋は第二次世界大戦に硫黄島で戦死。折口はその直前に、春洋を養子嗣とした。
昭和二十四年、春洋の生地である当地に父子墓を建立。
昭和二十八年九月三日逝去。

折口春洋先生
(1907~1945)
明治四十年二月二十八日羽咋郡一ノ宮村(現 羽咋市寺家町)に、藤井升義の四男に生まれる。
金沢第一中学校を経て、大正十四年國學院大學予科入学。折口主宰の短歌結社「鳥船」に入り、指導を受け、 やがて師の家に同居。
昭和十一年國學院大學教授に就任するが、数度の召集を受け、昭和十九年七月、硫黄島に着任。そこで折口の養子となるが、昭和二十年三月十九日、戦死。没後、陸軍中尉の報が届く。
父となった折口信夫は、米軍上陸の二月十七日を春洋の命日と定め、毎年「南島忌」を催す。

気多の村 若葉くろずむ時に来て
達海原の 音を聴きをり 迢空

春畠に菜の花荒びし ほどすぎて
おもかげに師を さびしまんとす 春洋

設置 平成二十五年六月二十日
羽咋市・羽咋市教育委員会
折口父子記念会