洪水から村を守ったものの無念の死罪に処せられた庄屋を祀る与茂七地蔵

新潟県長岡市にある「与茂七地蔵」は、宝永2年(1705)に徒党一揆を企てたとして無実のまま処刑された越後の義民・大竹与茂七を祀る地蔵尊です。
この地蔵尊は与茂七の首を晒した場所に建てられたといい、近くには新しい墓碑や鎮魂の碑、大竹与茂七の銅像も建てられています。

広告

与茂七地蔵の所在地やアクセス・駐車場

与茂七地蔵の所在地は、新潟県長岡市中之島4114です。

公共交通機関でのアクセスは、長岡駅大手口バス停から東三条駅行のバスに乗り「中之島文化センター前」で下車すぐです。

マイカーやレンタカーの場合、北陸自動車道「中之島・見附IC」で降りて中之島方面へ約5分です。
中之島文化センターすぐ脇にあり、隣接する中之島文化センターに大駐車場があります。

与茂七地蔵のいわれ

与茂七地蔵のいわれについて、現地の案内板に次のように書かれています。

与茂七地蔵

宝永元年(一七〇四)から同二年に起きた一連の農民騒動で捕われ、無実のまま処刑された義民大竹与茂七の地蔵尊。
新発田藩「御記録」は与茂七騒動を次のように記している。
事件は宝永元年(一七〇四)六月の大洪水に端を発した。
この時中之島村名主与茂七は、庄屋が留守のため自己の判断で藩の木を切らせ堤防を守ったが、帰宅した庄屋はこれを訴えた。裁判の結果与茂七は罪を免れたものの、二人の間には深い溝が残った。そして翌、宝永二年(一七〇五)の大凶作の際、借金の件がこじれ、与茂七側二十七ヶ村の百姓たちは庄屋宅におしかけたため、一揆徒党であるとして与茂七は再び囚われの身となった。裁判は八年も続き、その間与茂七はすべての歯を抜かれるなどの拷問を受けたが身の潔白を主張し続けたという。
しかし、ついには死罪を申し渡され「今はよしあらぬ濡れぎぬ身に負へど清き心は知る人ぞ知る」と辞世をよんで刑場の露と消えた。与茂七の首は中之島に運ばれ、与板街道に設けられた獄門台に三日間さらされたが、三日目の夜、首は何者かによって持ち去られたという。

平成二十八年 長岡市
中之島観光協会