聖武天皇が開いた幻の都・恭仁宮跡

恭仁宮跡

恭仁宮跡は、奈良時代に現在の京都府木津川市に造営された宮城の跡です。
藤原広嗣の乱後の天平12年(740年)、聖武天皇の勅命により平城京から遷都されたものの、3年あまりで造営が中止されたことから「幻の都」ともいわれています。
ただし、ここに都があった時代には、国分寺建立の詔や大仏建立の詔が煥発され、墾田永年私財法もできるなど、日本の歴史の上では重要な決定があったことも事実であり、国史跡に指定されています。

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恭仁宮跡のアクセス方法

恭仁宮跡は、京都府木津川市加茂町例幣にあります。
公共交通機関を使う場合、JR大和路線加茂駅から徒歩約30分です。
マイカーやレンタカーの場合、京奈和道「山田川IC」で降りて東へ約15分です。

恭仁宮(山城国分寺)の歴史

恭仁宮とその廃都後に建てられた山城国分寺の歴史について、現地の案内板に次の通り書かれています。

恭仁宮大極殿と山城国分寺跡

この場所は、天平十二年(七四〇)十二月十五日に、聖武天皇が「恭仁宮に幸す」と宣言して、平城京(奈良市)から遷都して来たところで、恭仁京と呼ばれました。聖武天皇が恭仁京に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地をいただき、南に平野がひらけてその中央を泉川(木津川)がゆったりと流れる瓶原の環境も無視できない重要な要素でした。「万葉集」には、新しき都を讃める歌が収録されています。 三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮ところ 定めけらしも (一〇五一)
咲く花の 色は変らす ももしきの 大宮人そ たち変りける (一〇六一)
このように新京を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや「泉川」と呼ばれた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。
恭仁京の中心には、天皇の住まいや国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。そこには平城宮から移築された大極殿がそびえ、天平の甍が輝いていたのです。現在、恭仁小学校の裏にある土壇が恭仁宮大極殿の跡で、昭和五十一年(一九七六)京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。
恭仁宮はわずか五年余りの短命な都でしたが、この大極殿をはじめ、恭仁宮の中心部はのちに山城国分寺として再利用されました。大極殿(国分寺金堂)跡の東側は、 国分寺の鎮守社として祀られていた御霊神社の境内地だったところで、永年地域の氏神として信仰を集めていた社には楠や椿が繁茂して、大極殿跡とともに歴史的な景観を保っています。恭仁宮跡の発掘調査は、昭和四十九年(一九七四)、京都府教育委員会によって行われ、平成八年(一九九六)には宮域が確定しました。

木津川市教育委員会