国仲平野を見下ろす城ヶ平と悲惨な一揆の歴史を伝える佐渡一国義民殿

城ヶ平は新潟県佐渡市にある、戦国時代の栗野江城の跡です。
標高150メートルほどの小高い山の上が削平されて広い平地になっており、ここから国仲平野を一望することができます。
この城ヶ平には江戸時代の百姓一揆の犠牲となった義民たちを祀る「佐渡一国義民殿」が建立されています。

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城ヶ平・一国義民殿へのアクセス方法と駐車場

新潟と佐渡を結ぶ佐渡汽船のフェリーが発着する両津港から県道65号線を通って車で20分ほどです。
県道65号線をさらに南に1キロほど入ると、「城ヶ平」の標識がありますので、この標識にしたがって奥へ進むと無料駐車場があります。
この駐車場向かいに階段がありますので、ここを登って遊歩道を5分ほど歩くと山頂の城ヶ平に到着します。
なお、駐車場の奥にも城ヶ平にまで続く未舗装の細い車道があります。

城ヶ平と佐渡一国義民殿

江戸時代の佐渡島は幕府の直轄地でしたが、百姓一揆が頻繁に起こり、多くの犠牲が払われてきました。
そこで昭和12年(1937)に「佐渡一国一揆」をはじめとする佐渡島内の一揆で犠牲となった義民26人を祀る「佐渡一国義民殿」が、この城ヶ平に建てられました。
当時の建物は老朽化により崩落してしまったため、平成25年に新しい建物が有志の手により再建されました。

佐渡一国義民殿の建立経緯・祀られている人々(祭神)

佐渡一国義民殿について、城ヶ平の案内板には次のとおり書かれています。

佐渡一国義民殿の由来

義民

金山経営のために幕府の直轄領であった佐渡で四度の一国騒動が起きた。何れも年貢の増米を阻止しようとする農民の蹶起によるものであった。幕府に訴願した事で願いは受け入れたが代表者は直訴の罪で極刑に処せられた。死罪、遠島、追放等多数の犠牲者がで島民はこれ等の人々を義民として崇めゆかりの地で丁重に祀ってきた。

経過
昭和八年、分散して行われていた義民の祭祀を一括祀る事によって義挙をより広く周知させ、霊魂を慰めることになるとして当時の佐渡郡町村会主導で、佐渡一国義民奉賛会が結成された。島内各地からの浄財によって昭和十二年景勝の地城が平の頂きに佐渡一国義民殿が建立され、島民の尊崇をあつめてきた。

再建
戦後、政教分離政策によって義民殿は行政の枠外におかれることになった。混乱期の管理不十分による老朽化に加え風倒木の直撃を受けた被害で倒壊寸前の惨状となった。再建を願う世論を受けて平成二十五年五月、地元を中心に全島を網羅した「佐渡一国義民殿再建実行委員会」が結成され、島内外から寄せられた浄財によって同年十二月に竣工を迎えた。
工事に当たって、設計及び監理は「伝統文化と環境福祉」の専門学校の伝統建築学科において担当され、同校学生の献身的な作業によって完成に至った。

平成二十五年十二月一日
佐渡一国義民殿再建実行委員会

祀られている義民

慶長の義民(慶長八年・一六〇三年)
新穂村 半次郎
北方村 豐四郎
羽茂村 勘兵衛(白井氏)

寬延の義民(寬延二年・一七四九年)
辰巳村 太郎右衛門 (本間氏)
椎泊村 彌次右衛門 (緒方氏)
同 七左衛門(本間氏)
川茂村 彌曽右衛門 (風間氏)
吉岡村 七郎左衛門 (永井氏)
新保村 作右衛門 (本間氏)
下村 庄右衛門 (服部氏)
和泉村 久兵衛 (久保氏)

明和の義民 (明和四年・一七六七年)
長谷村 智專 (遍照坊)
畑野村 文左衛門 (熊谷氏)
同 藤右衛門(本間氏)
同 六郎右衛門
小倉村 重左衛門(中村氏)
同 重次郎(中村氏)
後山村 助左衛門 (羽二生氏)
舟代村 五郎右衛門 (後藤氏)
瓜生屋村 仲右衛門 (本間氏)

天保の義民(天保九年・一八三八年)
上山田村 善兵衛 (中川氏)
同 助左衛門(大倉氏)
村山村 豊後 (宮岡氏)
畑野村 四郎左衛門 (後藤氏)
同 季左衛門(中川氏)
加茂村 半左衛門 (後藤氏)

佐渡一国義民殿は島内外の多くの方々からの浄財により再建が叶ったものであ ります。心から深く感謝申し上げます。
平成二十五年十二月一日
佐渡一国義民殿再建実行委員会