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天目山の戦いで武田勝頼が自刃した場所に建てられた景徳院

景徳院

山梨県甲州市にある景徳院は、天目山の戦いで織田・徳川連合軍に破れた甲斐武田氏終焉の地として知られています。境内やその周辺には、最後の当主・武田勝頼がこの上で切腹したという生害石、首のない遺体を埋めた没頭地蔵尊、侍女たちが川に身投げした姫ヶ淵、武田勝頼父子の首を洗ったという首洗い池、家宝の御旗・楯無の鎧とともに勝頼嫡男の信勝を元服させた場所という旗竪松のほか、大量の経石が出土した墓があります。また、山門は江戸時代のもので、山梨県の指定文化財です。

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景徳院のアクセス方法と駐車場

住所 甲州市大和町田野389
電話番号 0553-48-2225

景徳院は天目山麓にありますが、バスであればJR中央本線甲斐大和駅から市営バス天目行に乗り、景徳院入口バス停で下車してすぐです。
マイカーやレンタカーの場合は、中央自動車道勝沼インターから国道20号を大月方面へ向かい、「景徳院入口」交差点を左折して、トータルで10分ほどになります。
景徳院の下に市営駐車場が、景徳院の境内にも参詣者用の駐車場があり、どちらも無料で駐車できます。境内の駐車場は入り口がわかりにくいですが、総門前を横切る道路を山の上のほうに進むと見つかります。ただし、急坂なので注意してください。

景徳院の御朱印

景徳院の御朱印は、本堂の左側、本堂とは渡り廊下でつながっている庫裡に声をかければ、志納料300円ほどで「武田勝頼公廟所」と墨書が入った書き置きの御朱印と由緒書をいただくことができます。庫裡は一見すると民家のようなつくりです。また、基本は御朱印帳への記入ではなく、前もって書かれている書き置きのみの対応のようです。

景徳院の由緒

景徳院の由緒については、境内の案内板に次のように記されています。

山梨県指定史跡
景徳院 境内
指定日 昭和四十二年五月二十九日
地 域 大和村田野三八九番地の内一四〇アール
本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約五十名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第四子として天文十五年(一五四六)に生まれた。母は諏訪頼重の女である。天正元年二十八歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正三年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正十年(一五八二)織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。
勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年三月三日居城を自らの手で焼き郡内の岩殿城に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最期をとげた。時に天正十年三月十一日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将士の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内藤友晴の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿) の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。境内には世子信勝に「擐甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれ る「旗堅ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
平成十七年二月
山梨県教育委員会
大和村教育委員会

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